2011年10月19日水曜日

北京 眼鏡城


















今、手元にある数本の眼鏡。

全て北京にある眼鏡城なる場所で購入したものだ。

秋葉原の電気街を想像して貰えれば分かりやすいと思うが、一つのビルに何十もの眼鏡の小売店が軒を並べるという形式。

これだけ競合するお店が隣接することのデメリットよりも、一局集中しての顧客を引き寄せるメリットを評価して、あとは呼び込みなどの営業努力での差異化ということだろう。

さて、使っている眼鏡の鼻と固定する部品が気付いたら無くなっていたので、さっそく持っていく。あるお店の売り子のオバチャンに事情を説明すると、ちょっと待ってなと眼鏡を取り上げ奥に消えていく。

どんな風になってるのかと気になり、一緒にズカズカと後について行くと、ジーパン履いた若い兄ちゃん達がゲーム片手に機械をいじって調節してくれる。

しばらくすると、オバチャンが眼鏡を持って帰ってきて、レンズを丁寧に拭きあげてくれ、ハイと渡される。

もちろん代金など要求されず。

そういえば、弦の部分に圧迫されてコメカミ部に凹み出来て来たのは、体重増加の賜物なのだが、それに伴い、幅広の眼鏡も必要かという事で、オバチャンに再度事情を説明し、とにかく幅広のフレームを持ってきてもらう。

その間にレンズは今と一緒でいいからというと、レンズを機械で測って同じものを用意してくれる。

一店舗だけでもフレームが数百あるので、其れなりに気に入った形は見つかるもんで、全身鏡の前の立ったり、携帯で写真を撮って見たりと色々して最終決定。

そしてここから値段の交渉。いつも同じことをやって時間の無駄だと考えないのか?と思わずにいられないが、これがこの国の買い物の標準なんだと郷に従い、あーだこーだとやり取りし結局、1800円で決着。これでも十分美味しい客だったのかなと思いつつ、レンズがつくまで他の店をブラブラ。

そんな風景を見ながら、このグローバル社会、この様な日用品レベルの商品ならば何処で手にしようと殆どモノとしては変わらない。しかし同じものを日本で手にすれば何倍もの価格の違いとなる。この店で買ったものでもないのに、気軽に直してくれる、サービスの懐の広さも加味すると、一体何がその価格差に含まれているのか訝しがらずにいられない。

モノやサービスの値段が変化する時には幾つかの理由がある。職人の努力による質の向上、単純に原材料や生産過程での人件費などを含めたコストの高騰、企画やアイデアの目に見えないコストの付加、AからBへと横流しにすることでの中間マージン、別の場所から持って来ているという希少性、独占状態にしての価格コントロール、そして儲けをあげるために営業努力も品質向上も無しにうちしか売ってないからといって値段をあげるパターン。

そんなことを考えると、現状の日本において適正といった価格がついているのは結構少ないのかと思わずにいられない。

右肩上がりに給料も上がったかつての時代ならまだしも、もう一度、せーのとモノの値段を考える時が来るのだろうと思いつつ、オバチャンから出来上がった眼鏡を受け取る。
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