2011年3月19日土曜日

多くのものが失われた。しかし多くのものが残っている。

一週間が経過した。

一日、一週間、一ヶ月、一年と、どんなつらい時間が過ぎていても地球は回り、悲しみに打ちひしがれている時間から、リセットではなく切り替えをする機会を与えてくれる朝日が、必ず同じように昇るということと、様々な数字の進法の組み合わせは、こんな時のためにあったのではと思わずにいられない。

専門家によれば、1000年に一度の規模で、平安時代に似たような災害が起こったのではという。きっと1000年前の人々は、それこそ天罰だと神に祈るしかなかっただろうが、我々には積み重ねた様々なものがあり、その積み重ねが被害を和らげたのは間違いないはず。しかし、最小限にできたかといえば、きっとそうではない。


「多くのものが失われた。しかし多くのものが残っている。」


数日前に岩手県知事が言った言葉。その通りだと思う。

今しなければいけないことは、人として被災地の人々にできることは最大限することはもちろんだが、忘れてはいけない次への備え。一週間という時間はくるっとまわるように、あの時を俯瞰できる視線を与えてくれて、衝撃から受身の時間を越えて、次は備えと積極的な準備。いつか日本が再度口にする1000年に一度の災害時には必ず被害者をゼロに、そして被害を最小限にするという強い思い。

その思いを持って、自分にできる日常を精一杯に生きて、それぞれの役割を確実に果たし、その中から、個人の喜びの為の時間や出費を少しだけ抑えて被災地の復興に回して貰う。

この災害を目にした若者達は、辛いからこそ学び、二度とこの光景を起こさない為にも学問を目指すだろうし、その中から、必ず将来のエネルギー産業や、国の防災を担う人材が育つだろう。

巨大地震を予知できれば、一体どれだけの人の命を救い、どれだけ国の経済を守ることができるのか、それを実感した人の中から、時間を限定することができないために、危険と思っても公表することがためらわれるという現在の地震学の枠組みを越えて、積極的に地球と共につきあう方法を示す地震学を確立するものがでてくるだろう。

一瞬にして全てを失った人が失ったのは、どうせまた積み重ねてもまた災害で失うのでは・・・という未来への眼差しも一緒に失わないように、希望を消さない強い政治家の役割。

そして縦割りでは通用しないということが痛感した今回の教訓を生かし、横の連携はもちろん、想定外の事を想定するためにも、イマジネーションにあふれた災害シナリオ・ライターとして小説家でも作家でも協同して新たなる防災対策を練る必要性。

遠からず来るといわれる東海地震。そして首都圏直下型大地震。その時に、この経験を活かすべく、今すべきは各行政の災害対策マニュアルをしっかりと読み、各市区町村の災害情報へのアクセスを確立し、自宅とオフィスの防災環境を立直し、電話通信に頼らないSNSのコミュニケーション方法を装備して、耐震基準を信頼し、海溝型地震であれば地震で焦らず、津波を逃れること。いつ来るか分からない、から、いつ来ても大丈夫と迎え撃つ頭に切り替える。

残されたものの一員として、皆がそれぞれの一週間を経て、その先に我々の1000年後があるのだろう。

そう思いたい。

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