2010年9月13日月曜日

「現代建築 アウシュヴィッツ以後」 飯島洋一 青土社 2002 ★★★
















9年目を迎えたポスト9/11の今年は、本を焼くことで自分達と反りの合わない思想を公開で抹殺する「図書(ビブリオ)コースト」の問題が世を席巻することになった。この顛末を見て、やはり「現代建築・テロ以前/以後」と合わせて、二冊同時に9/11に読むにはもってこいの一冊である、飯島洋一のこの作品を思い出す。

序章では、「1 列車の夢」から始まって、ホロコーストの生存者に訪れる列車画像のフラッシュバックに現れる悪夢の反復体験より、ナチは鉄道を使って犠牲者達を絶滅収容所に「輸送」していたことから、産業革命と強制収容所は不可分な関係であるとし、身近で、日常的なものであるがゆえ生まれた「歪み」で物語りは始まり、「2 時間のギャップ」では、「潜伏」「遅延」「回帰」と、「生きる為」に「忘れていた」記憶の在り方を明確化し、人類の「二つの忘却」へとつなぐ。そして「3 持続的時間の建築」で、2001に完成した『ホロコースト・メモリアル』の設計者であるピーター・アイゼンマンの作品の批評へとつなぐ。

ジャック・デリダと共同した『ラ・ヴィレット公園』コンペ案では、垂直の「モニュメント」(構築性)をまず水平に転倒させ、次に砕いてみせた「モニュメントの不可能性」を読み、ベルクソンの時間、「客体の時間」(継起的時間)と、「主体の時間」(持続的時間)の二つを織り交ぜた主観的な時間を経験させるものとしてのモニュメントを読み解く。そして「4 復古主義」では、シンケル設計の劇場『シャウュピールハウス』1821を経て、「5 メモリアルの行方」で、アドルノの発言「アウシェビッツ以後、詩を書くことは野蛮である」が建築界にどのように「回帰」してきたかを見せる。

第一章では、「悪霊の列車 ルドルフ・シュタイナー」とし、「1 悪魔の花嫁」からゲーテアヌムの設計者である、ルドルフ・シュタイナーの今日的な意味を考え、「2霊的な機械」同時期に現れた未来派のマリネッティにも好まれて引用された「機械」のイメージ等に見られた同時代的な感覚を、ベルクソンの『時間と自由』で指摘される、凝固した感覚と流動的な感覚という二つの感覚と対応させ、さらに「二つの空間」に対応した物質的な空間(現実)と内的な空間(魂、霊)の表れとつなげる。

「3 魂の戦場」では、多く引用される多木浩二の『都市の政治学』より、コルビュジェのユートピアを「生の都市」とし、その対極にあるアウシェヴィッツが「死の都市」であったと引用する。「4 トランスフォーメーション」においては、再度ウィーンのアウガルテンに残るナチスの要塞の廃墟、フリードリッヒ・タムス設計による四角いレーダー塔と円筒形の砲撃等とがペアで、合計三箇所に六基の負の遺産が、そのコンクリートの厚みゆえに破壊不可能を持つことから、意味を剥ぎ取られた建築の死へとつなぎ、ハンス・ホラインの「死」1970 展覧会や、『トランスフォーメーション』に見られる、肥大化した廃墟を解説してゆく。

「庭が消えた エコロジーとアウシュヴィッツ」では、「1 気球生態系という庭」からロシア文学研究者である、ドミトリイ・セルゲーヴィッチ・リハチョフの『庭園の詩学』から、隠された象徴体系や隠されたイコノロジー的様式が意味をもたなくなった19世紀半ばに「庭が消えた」という言葉を引き、世界の縮図としてのルイ14世の「ヴェルサイユ宮殿」に見え隠れする異国趣味=異国支配の構図を読み解く。「2 エコロジーとアウシェヴィッツ」では、ナチスがエコロジーに執着していたという事実より、著者が感じるという地球生態系保護に隠される、どこか「死」の臭いを解説する。

「危機の時代の表現 マニエリスムの建築」では、マニエリスムは危機の時代の表現と定義し、「1 酸素のパフォーマンス」から、ディラー・スコフィディオの作品に見える身体の表現を見つめ、「2 空気の飢餓」で、彼/彼女の作品に見られる内的な「穴」を、現代の精神的危機の「穴」と重ね合わせようとしている態度を読み取り、「3 世界の学習の破綻」では、「呼吸」するという行為が休み無く「世界」とコミュニケーションの回路を結び合い、流通し、関係しあっている、という意味合いを明確にし、「4 強迫観念」では、コープ・ヒンメルブラウとエドゥワルド・パオロッツィの作品に見られる、「穴/空虚」を描き、「5 環境破壊と酸素欠乏」を経て、「6 「第二の地球」という妄想」」で、人工化された「第二の地球」としての、「バイオスフィア2」まで展開する。

続く「サイバーの息子 近未来都市の建築」では、「1 サイバーパンク・アーキテクチャー」として、マーコス・ノヴァク、マレーヴィッチ、シュルツェ=フィリッツからレベウス・ウッズまでをざっと並べ、「2 サイバースペース」でマイケル・ベネディクト『サイバースペース』を引き、「3 サイバー=ベルクソン」では、ベルクソンの「持続」という概念を引っ張りだし、「4 宇宙的霊魂」では、同じくベルクソンの『物質と記憶』から、現在とは「私の持続の中で形成途上にあるもの」という彼の言葉を引き、「5 進化の流れ」、「6 人類愛」、「7 スキナーの部屋」、「8 アンチ・フォルス」で、ドゥルーズ=ガタリ『アンチ・オイディプス』からオイディプス三角形から「区別する座標」を与えた影響としてのグレッグ・リンを紹介し、「9 新しい神」では「どこから」撮られているのか、距離が定かではなく、それゆえに機械である衛星が、「神」と比肩することになる、アンドリュー・ホームズ「TVXS」の作品を紹介し、「10 創造的進化」として、20世紀は「複数の時代」、「分裂と非対称の時代」、「複雑さと多様性の時代」としてこの章を終える。

「世紀末のミュージアム 「ユダヤ博物館」 と 「テート・モダン」」では、「1 世紀末の建設ラッシュ」で、20世紀末から続く世界中でのミュージアムの建設ラッシュから、「20世紀」的な事情を読み取り、「2 二つのミュージアム」で、ユダヤ人博物館とテート・モダンに見られる、20世紀とはどういう時代だったのかを21世紀へと強く伝達する構えを紹介し、「3 潜在的な建築」において、再度、多木浩二の『都市の政治学』の中のビルケナウが死の都市であり、焼却炉がこうした都市の中心をなす建築だったことを紹介し、20世紀の「負の遺産」と「正の遺産」を描く。

「二十世紀のスペクタクル 閉鎖生態系について」では、「1 世紀末の楽園」では、人類のすでにあるものを「もう一つ」つくろうとする欲望から、18世紀の温室建築、19世紀の「クリスタルパレス」を経て、20世紀の「バイオスフィア」へつなげる。

「エリック・ロメールの庭 映画の建築/建築の映画」では、「1 郊外と市内」で「ヴェルサイユ宮殿」に対して、ルイ14世が市内に整備した「ルーブル宮殿」との対比として、リカルド・ボフィールの二つの作品を並べ、続いて「2 二つの首都」で、同様に、コルビュジェがパリの郊外と市内の両方にわざわざ一つずつ計画した理想都市、「300万人の現代都市」1922と「プラン・ヴォアザン」1925を比較し、シュペーアのベルリン大改造「ゲルマニア計画」まで拡張する。「3 夢の中の庭」では、ベルナール・チュミの「ラ・ヴィレット公園」に見られる入れ子構造から、パリの構造を見て、そこから「4 シネグラム都市」チュミとロメール共通項である映画的な作品としてつなげる。

「ベルリンはどこへ行くのか 新首都の意味するもの」では、EUのモデル都市としてのベルリンと見、、「ベルリンの 「図書館」 ビブリオコーストについて」では、ハンス・シャロウンの「国立図書館」の「記憶の重さ」と比較し、本が一冊もない図書館としてのミシャ・ウルマンの作品に潜む、「焚書事件」、つまり本を焼くことで自分達と反りの合わない思想を公開で抹殺する「図書(ビブリオ)コースト」を見て、 「うわさの起源 風説となった建築」でロラン・バルドを経由し、「ナチスの廃墟 ウィーンの要塞建築」でヒロシマの原爆ドームを覗けば都市の中に残されない日本に比べ「破壊不可能」なナチスの要塞建築と共に生きるヨーロッパを引き、鈴木了二の「絶対現場1987」に見られる、破壊の時間を意図的に遅延させ、通常の場合の壊される速度との差異を明らかにする態度を見せる。「地下は自然を排除する ベルリンの総統地下壕」においては、「自然」がことごとく排除された総統地下壕から、地下に見える排除の論理と「地下鉄サリン事件」が地下で決行されたことをつなぎ、「シンボルとなった建物 「ライヒスターク」 の数奇な運命」では、ノーマン・フォスターによる増築されたドームに宿命的な政治の臭いを被せ、「最後の建築 アルド・ロッシの遺作」では、既視感としてのデジャ・ヴュ対語としての、ジャメ・ヴュ、つまり「未視」を連想する。

「死の工場 アウシュヴィッツ以前/以後」では、「1 20世紀のビルディング・タイプ」で古代には神殿、中世には教会があったように、20世紀のビルディング・タイプとして工場を挙げ、「2 死を内包するビルディング・タイプ」でもう一つの死の工場として、アウシェビッツにつなぎ、ハイデッガーの絶滅収容所を「死体製造所」と呼んだ言葉と、ハンナ・アーレントの「死体の製造」を引く。そして、1977のポンピドー・センターでまるで工場のような美術館の出現を迎える。

「有名な機械 エッフェル塔」では、ロラン・バルト『エッフェル塔』から、「2 空虚な記号」で人間が絶えず何らかの意味を注ぎ込むある形式の役割を演ずるエッフェル塔の歴史を読み、「3 「もの」への還元」で、写真家アンドレ・マルタンの作品に、「もの」にすりかわたたただの機械に過ぎない、零度の状態を見る。

「現代アメリカを体現する建築家 フィリップ・ジョンソン」では、「1 第三の道」から「2 奇妙な傾斜」と、キュレーターから建築家として、20世紀の建築界のフィクサーとして活躍したジョンソンの変遷を追い、「3 抵抗の時代」で「ホワイト&グレイ」論争を経て、「4 ポストモダニズム」でマイケル・グレイブスの「ポートランドビル」に並ぶ世界的な意味の先駆的ポストモダンとしての「AT&Tビル」を紹介し、「5 ジョンソンとは誰か」で脱構築的な作風を経て、「ライト・コンストラクション」展覧会まで企画し、20世紀の全ての様式を一人で駆け抜けたジョンソン論を展開する。

「古代への回帰 リカルド・ボフィル」では、「1 ボフィルの複雑さ」「2 二重論」「3 古代への回帰」と、記号的な様式の折衷者としてのボフィルの作品を紹介し、その中にスペインとカタロニアというボフィル自身の二つのアイデンティティーを見出す。

「救済の行方 ロシアの建築家たち」では、「1 ペーパーアーキテクト」「2 輪廻転生」とアレクサンドル・ブロツキーとイリア・ウトキン、ミハエル・ベロフ、ユーリ・アヴァクモフの作品を紹介する。

「天と地をつなぐ階段 ライムント・アブラハム」では、「1 天と地の家」「2 天と地の再会」「3 意識の階梯」と陰鬱で終末的な雰囲気を出す、グラーツのライムント・アブラハムの作品を見ていく。

アイフォン片手にメモを取りながらの読書だが、さすがにこの分量だと左肩が痛くてしかたなくなりつつ、9年前の9/11に想いを巡らす。

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